邪馬台国の謎
魏志倭人伝(いわゆる三国志の中の魏書東夷伝・倭人の条)の記載通り辿っていくと邪馬台国は九州から南の海の中にあったことになる。
邪馬台国という名の記載は中国の歴史書としての資料価値の高い三国志には記載が有るのに日本の二代歴史書と言われる記紀はじめとした日本国の古代文献には邪馬台国の名も卑弥呼と言う名も記載が無い。
なぜだ?ヤマト朝廷は現天皇家の始祖とされている。仮に邪馬台国その卑弥呼が正当なヤマト朝廷の前身で有れば記紀に記載されていてもおかしくはない。記紀は天武天皇の時期に編集を開始され天武亡き後の持統朝の時期に完成された。この時中央集権化の中心で絶大な権力を握っていたのは藤原不比等である。
では卑弥呼は滅ぼされたのか?滅ぼしたのはヤマト朝廷か?神話では神武天皇が東征して神武以前のヤマトに神武に先だって東征し君臨していたニギハヤヒ(物部の始祖)とナガスネヒコを滅ぼし従えたと語る。
と言うことは卑弥呼は物部か?
卑弥呼が物部と重なるならば邪馬台国は物部王国と重なり邪馬台国は畿内にあったのか?
しかし物部氏の系譜を示した「旧事本紀」に卑弥呼の名はない。しかし御神体が三輪山である大物主命(大国主命と同一か?)の奥さんとなった倭トトヒモモソ姫が卑弥呼ではないかとの説もある。
奈良のマキムク遺跡はほぼヤマト朝廷であろうと言われている。そのそばにある箸墓古墳はこのヤマトトトヒモモソ姫のものであろうと言われている。
神武天皇は九州に天孫降臨した天孫族であった。その神武天皇は瀬戸内海をとおり難波の海(現大阪当時は海)に降り立ち生駒山を越えてヤマトに入る。神武天皇(本当は崇神天皇がヤマト朝廷を統一した人?崇神天皇の神話部分を請け負ったのが神武?)は神話の世界の人だとしても奈良にヤマト朝廷を開いたのは事実だろうと言われている。
続く・・