熱田神宮

熱田神宮の御祭神は熱田大神即ち三種の神器の一つの「草薙の剣」です。

草薙の剣はスサノオノミコトが八岐大蛇を退治した時に大蛇の尾の中から出てきました。
その後天照大御神に献上 天孫降臨する孫のニニギノミコトに授けました。

その後草薙の剣は伊勢神宮に奉納され祭祀をしている天皇の姉妹の斎宮が守っていましたが
日本武尊が熊襲命退治に行くときに身につけさせて送り出しました。
(日本武尊の父親である景行天皇の姉妹の倭姫命が初代伊勢神宮の斎宮です)

さて、日本武尊の話ですが

日本書紀と古事記ではその記載に違いが有ります。

注釈;以下天皇と記載しましたがこの時代は「王」と言われていました。
その後21代雄略天皇のときに「大王(おおきみ)」と代わり
壬申の乱で勝利した天武天皇の時に「天皇」ということばを
使用するようになった様ですがここでは統一します。

日本書紀では日本武尊は景行天皇の後を継いで天皇として即位するはずでしたが
辺境の民族を征伐する間に亡くなりってしまったというように記載されています。

古事記では 日本武尊は兄弟殺し、親から生涯邪険にされ続けた
悲劇の皇子として描かれています。

実際、日本武尊とは存在したのかと言うところです。
先ず、12代景行天皇は自身で九州熊襲征伐に行っています。

それはさておき日本武尊は景行天皇の双子の息子として産まれました。

天皇は双子の兄に、ある女性を自分のところへ連れてくるように命じました。
ところが兄は女性の美しさに目がくらみ自分のもとへ留め置きます。
天皇は双子の弟の日本武尊に兄を説得するように命じますが
兄はのらりくらりかわします。
最終的に気の荒いタケルは兄を殺してしまいます。

それを聞いた景行天皇は息子を疎ましく思い倭に従わない民の征伐に送り出します。
ところが日本武尊は勇猛果敢にも熊襲や出雲を征伐して父のもとへ帰ってきます。

PS;かなり卑怯な手を使ってやっつけてくるので勇猛果敢と言ってよいのかどうか?
熊襲タケルの時は女装をして近づき刺し殺し、
出雲タケルの時は自分は本物の剣で相手は騙して木刀で戦い切り殺します。
この発想は中華思想でしょう。
中国は漢民族以外は夷狄と言って野蛮な民族であるので従わせねばならない。
又どんな卑怯な手を使ってもそれは反則ではなく騙したもん勝ち。騙されたもん負け。

さて父のものとへ凱旋して戻ってきても父天皇は更にタケルを怖がり休む間も無く
今度は東国平定に向かわせます。
日本武尊は東国に行く前に叔母である伊勢神宮斎宮倭姫命のもとに寄ります。
そこで彼は弱音をはいています。「父は私を嫌っておられる・・」

その後いろんな苦難を潜り抜けますがタケルは結局伊吹山に行った時
山の神を祭らなかったためその怒りに触れて亡くなります。
亡くなった場所は三重県亀山市です。
(三重の意味はタケルの足が三重にも曲がってしまった・・)

タケルの后や子供が駆け付け彼の死を嘆いているところ
日本武尊は白鳥になって飛び立っていきました。

伊勢から河内そして羽曳野まで飛んで行きました。
各所に白鳥陵が有ります。

最後に熱田神宮の御祭神である草薙の剣は実際天照大御神であるという説
実は日本武尊であるという説が有ります。

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