魏志倭人伝には卑弥呼の記載は有る。当時の中国は魏呉蜀の三国がご存じのとおり群雄割拠。
三国より東西南北は蜀の諸葛孔明が征服した時の記載通り野蛮な国と「されていた」。諸葛亮孔明が劉備亡き後、南東に下って征伐する話はなんて野蛮で無知な国と思わせる記載部分が有る。
((魏書東夷伝・倭人の条)東夷とは東の野蛮な国と言う意味、まあ失礼な話ですが・・)
まあ、三国は微妙なバランスの上に成り立っていた(秦の始皇帝や漢の劉邦(漢の高祖)のように絶大な権力を持っている人間が居たらあり得ない分割劇であった・・と述べている人もいる)
魏は倭の国の卑弥呼と交流を持ち 呉は邪馬台国より南にある邪馬台に決して屈しなかった狗奴国と通じていた。
呉と言う国は揚子江周辺に位置し日本の南の国とは通じやすかった。いわゆる三国志赤壁の戦いのときの孫権は狗奴国と通じていた。
(余談だが秦の始皇帝が中国を統一した時のこと・・
始皇帝は手に入れるべきものを皆自分の物にした。。手仕入れられないものは・・永遠の命だけで有った・・
そこで永遠の命を手に入れるべくして絶大な信頼を置いた徐福と言う人物を派遣して永遠の命を手に入れるべくして旅立たせた。徐福は手に入れることができると信じていたのかあるいは食わせの物だったか知る余地はないが・・今の日本の対馬に到着した。)
この狗奴国は南九州だったか?それとも現和歌山付近か?現和歌山にも狗奴国の名残はある。
南九州なら狗奴国は即ち隼人・熊襲である。
和歌山が狗奴国ならば邪馬台国は即ち畿内にあった。
邪馬台国とヤマト朝廷の成立時期は殆どかぶる。
即ち神武東征橿原即位122年 卑弥呼127年~138年
三国のバランスが崩れ蜀が魏に征服され魏が晋にとって代わられその後晋も衰退し中国が戦乱の時代に入っていくと倭国も後ろ盾を失っていく。
その後突然ヤマト朝廷が出現する。