マルチ人間

奈良時代に凄い人がいたのを知りました。

その人は・・・吉備真備・・・

父は備中(岡山)の小役人(郡史)下道氏
母は大和の豪族楊貴氏の娘

下級官吏から政府の中央まで昇りつめた人はこの人と
菅原道真だけです。

菅原道真は吉備真備と違い政変により最後は大宰府に流され
人生の終焉を迎えますが吉備真備は左遷左遷を繰り返しながら
最後は右大臣として惜しまれながら退官します。

吉備真備は22歳の時と57歳の時2回遣唐使に加わります。
当時は勿論厳しい渡航状況であったにもかかわらず
2回とも無事に往復しています。

<当時の唐>玄宗皇帝の時代です。
玄宗皇帝は唐では第二代皇帝と並んで良政を敷いたと
言われていますが有るときを境に彼は政治に興味を失います。
それは楊貴妃を側室にしたためでした。

22歳の時は留学生として遣唐使に加わり6カ月かけ唐に渡り
17年もの間長安で学問に励みます。

唐で究めた学問は「儒学」「歴史学」「兵法学」「陰陽道」「算術」
「法律学」「築城学」「天文学」「暦学」「音楽」「書道」
(囲碁の始祖、片仮名の発明ということも
言われていますがこれの真意は定かでは
有りません。)

頭に全部詰め込んで日本への帰途につきます。
同時に渡った遣唐使に阿倍仲麻呂がいますが彼は家柄が良かったので
上級学校に入学しその後科挙の試験を受け唐の官職についたため
日本に帰れませんでした。

57歳の渡航時は唐から鑑真を連れて帰ります。

さて日本に帰った真備はその知識によって当時の聖武天皇の
厚い信頼を得ます。

彼の知識は当時の治世者には必要だった為
そして無欲だった為
そして一生懸命で有った為
妙な策を弄しなかった為
政争に巻き込まれても生きながらえました。

称徳天皇のとき右大臣の地位につきます。
これは藤原仲麻呂の乱(いわゆる恵美押勝の乱)のとき反藤原派として
唐で学んだ兵法で乱を抑えたためと称徳天皇の信頼が厚かったためです。

<兵法の元祖>
唐から持ち帰った「諸葛孔明の兵法」「孫子の兵法」太公望が編み
漢の劉邦の軍師と言われた張良が謎の老人から譲り受けた
「六韜三略」を当時の兵士に教えて行きました。

前述の称徳天皇はあの弓削の道鏡のお相手の女帝です。

道鏡に関しては諸説ありまたの機会に書き込むことに。

古代の麦(春日大社にて)
唐に渡った吉備真備は麦が多く植わっているのに感心した。
日本も米だけに頼らず麦も植えねばと思った。
なぜならば麦は米と違って環境が悪くても育つから
もしもの時の食料として奨励することになる。

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